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日常って、微妙な差異こそ大事かなと思います。


by KATEK
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場面緘黙から離陸。

場面緘黙。
まだ気持ちの上で引きずっている。
ひきずってもしかたがないことは承知しているけれど、
自分の<傷つきやすさ>の根っこがこんなところにあって、
しかも遺伝的なものである可能性が高い、
つまりDNAに書き込まれている脆弱性というわけで、
ここから逃れることは難しいとなると、冷静になれない。

小さなころに治療しておく必要があるといわれても、
もう過ぎてしまったことだし、たぶん多くの大人たちが
同じ問題を抱えているに違いないと思うと、歯がゆくもある。

わたしが生きていくには、一定のリズムで一人の静かな時間を
もつことが大事なこと。
そして気のゆくまま眠ること。

このせわしい世の中で働きながら、静かな時間を持つのは
難しい。

でもなんでも「難しい」と思いすぎているのかも。
すこし頭を離陸しよう。
# by KATEk | 2012-01-04 22:32

場面かん黙 パート2。

場面かん黙といっても,そういう人を見たことがない方も
大いに違いない。
でも教室にやってくる子を見ていると,何年かに1度という割合で
かん黙の子に会う。
統計上は女子のほうが多いのだが,今までに出会ったのは男子のみ。

場面かん黙の場合は,だいたい家の中では話ができる。
学校とか外に出てしまうと,発話ができなかったり,からだの
動きが緩慢になったり,できないことが多くなってしまう。

そして何より,なぜ声が出ないのか,なぜ学校では話ができないのか
本人にもさっぱりわからず,しかも周りから「変わった子」扱いされる
のが問題なのだ。

わたしは2年間,声を出せず,絵や工作ができず,運動ができず
だから遊ぶことができずにいた。
休み時間になると,いつも木に寄りかかってぼーっと周りの子が
遊ぶのを見ていた。
休み時間は苦痛だった。ここにいていいのかっていう感じが
していたから。

この場にいていいのかという不安は,20歳代いっぱい続いていた。
外でトイレに行けないのは小学校5年まで。
初めて学校のトイレにいった5年生のときのことは,よく覚えている。
運動会の予行練習の日だったと思う。
恥ずかしいのと達成感とで複雑な気分がした。
でも,まわりの友達にトイレに行けないことを知られないように
していたから,顔つきはいつものまま。

小学校中学年になっても図工の時間,作品が作れない不安で,
いつも学校で作る前に母親に作ってもらってもっていっていた。
情けないがしかたがなかった。
担任も何も言わなかった。

場面かん黙の場合の不安は,普通の人が感じる不安と程度が
ちがうらしい。
緊張でのどの筋肉がかたまり声が出なくなる。
なぜ,何に緊張し不安を持つのか,原因は不明。

今,私自身の中で問題になっている学校での対人関係について,
カウンセラーいわく,
「感じている以上に大きな打撃を受けていると思いますよ。」と。

だからからだが反応してしまうわけだ。
もうだめってなってしまう。
考えてみれば些細なことなのに,わたしの脆弱性がそれを
受け入れられないということだ。

場面かん黙の子どもは少なからずいる。
でも日本では情報があまりない。
研究もあまりされていない。
後遺症が残らないように,学校自体がもっと体制を整える
必要があるとつくづく思う。

わたしは幸い,母や家族からも担任からも手は打たれず,
黙ったまま放っておかれたので,深刻な2次災害は受けずに
すんだ。
幸いでもないけれど・・・・

ということでした。
# by KATEk | 2011-12-23 13:54

場面かん黙でした。

本屋で偶然「場面かん黙」の本を見つけた。

私自身,この「場面かん黙」を幼稚園・小学1年生の
2年間経験していたが,そのときの気持ちや行動の
理由がまったくわからず,時々思い出しては,
腑に落ちない感じを持ち続けていた。

本を読んだら,わかる・わかる!
今になってやっと場面かん黙の治療の必要性が
いわれるようになったくらいだから,私の子ども時代に
治療なんて考えられもしなかったのだろう。
わたしは勝手に治ってしまった。

と,思っていたがそうは問屋がおろさず。
今になっても当てはまる後遺症があるのだ。

学校にいる間はまったく話しもせず,遊びもせず,
体育の授業にも参加せず,絵も描かず,泣いてばかりいた
小学1年生のあの頃。

小さい頃からなにしろ「おとなしく」一人で遊んでいた。
母親は舅・姑の前,わたしと遊ぶことなど一切しなかったし,
話さえしなかった。
母が最後にお風呂に入る時間になって,やっとわたしを
一緒にお風呂に入れてトーキングタイム。
でも,じっさいには母の愚痴を聞く時間になっていて,
母がかわいそうだから何とかしてあげたいと思いを
強めることになっただけ。
母になついていたが,母からの
「何事も我慢が大事」という話に,今思えばわたしは
どんどん縮こまっていった。

表現することをがまんすること,
そればかりが身について,表現していいのは
「正義」を行うときだけという枷がはめられてしまったようだ。
なにしろ「弱い人を助けなさい」とずいぶん言われたから。

というわけで,いくらマッサージに行っても,
なにをしてもからだがほぐれず頭痛が続く毎日というのが
当たり前の結果だとわかったわけだ。

これって愚痴か知らん。
でも,
いまさらながら,誰かに助けてもらわないとだめみたいな
気になってきた。

カウンセラーには
「よくここまでやってきましたねぇ。」とため息交じりで言われた。
「がんばってますよ。本当に。」とも。

もうがんばるのやめたいなぁ・・・
# by KATEk | 2011-12-22 22:52

うーん。そうですねぇ。

昨日は,女性の使うことばに命令形は不向きと書いた。
stlさんのコメントを読ませたいただいて,
わたしのくくりかたは大雑把な気がしてきた。
そこで再考。

昔,好きで(感動して),なんども生徒に紹介した詩がある。
(もちろん今も好き。でも生徒には古くなってしまった)

アパルトヘイトの時代に,南アの女性の詩人が書いたもの。
「違うと言おう」というもの。
白人に偏見を持ったことばを投げかけられたら,
違うといおうという趣旨の短いフレーズが続く。
(手元に詩集がないので紹介できないのが残念)

NO!ということばは強い。

映画「スタンドアップ」でも炭鉱で働くことになった女性の主人公は
いろいろな場面でNOをつきつける。

茨木さんの詩にも強い言葉がでてくる。
自分の感性を自分で保つことができないものに対して,
ばかものめ,と言い切る。

英語圏では強いことばを使いやすいのかもしれないし,
文字にすると日本語もまた強いことばが使いやすいのかも
知れない。

それに「静かにしろ!」ではなくて「静かに!」とか「静かになさい!」
とか,日常口にすることばで強い感情を表すことはできるのだ。

ただ,男性と違って,ふいにことばを発したときに命令形の強い
ことばは,わたしにはなかなか出てこない。
せいぜい「うるさい!」と自分の気持ちを言うくらい。
命令形を使うときは,考えてから出ないとたぶん難しい。

生徒いわく
「男の先生はさっぱりおこっておしまいだけれど,女の先生は
ねちねちしつこい」
でもどうしても言葉数で説き伏せることしかない場合が増えるのは確か。
そこに権威を見せようとすると生徒にとっては,もうアウトだ。
わたしすら職員室での女性の先生の説教にはうんざりするくらいだ。

女性って不利だよなぁ,なんてつい思ってしまう。
でも本当は不利でもなんでもなく,
女性性を大事にした人間関係や言葉遣いを大事にしたい。

昔のわたしならジェンダーフリーの観点から・・・なんて思って
こんなことは言わなかったかもしれないけれど,今は自分が
気負わないでものを言えることのほうを選ぶ。

まぁなにしろことばは難しいものだ。
と,今日はここまで。
# by KATEk | 2011-12-15 20:33

女性にとっての命令形。

ある本を見つけようとして本棚をごそごそしていたら,
忘れていた本を見つけた。
ことばに関する本。
(今手元にないので書名は略)

昨日学校で,窓からか顔をだし大きな声で,
生徒に向かって怒鳴っている男性の教員がいた。
あまりに大きな声だったので,若い男の先生は
「迫力あるなぁ。」と感心していたようだった。

わたしはあれ?とおもったのに。
そんな大声を出さなくたっていいだろうにと。

校門から出て行こうとする生徒に,
「どこにいくんだ。でちゃだめだろ。戻れ。早く戻れ。」
と「指導」。

そう,昨日見つけた本の話に戻ると,
女性の使うことばは怒りの表現に向いていないこと。
またしかる・怒鳴ることにも不向き。

まったくだと思う。
男性の教員は,「教室に入れ」から始まって,
全てを命令形で話しても,おそらく生徒には違和感がない。
もしも同じようにぶっきらぼうに女性がそんなことばを
使ったらドウだろう?

教員になって数年の間,わざとそういうことばを使ったことがある。
またある程度歳がいった女性の先生で,怒るとそういうことばを
使う人もいる。
でも,すごく無理しているとしか聞こえない。
聞きたくないような声を出しているといってもいい。

自然と命令形のことばに従う生徒のほうが多いし,
わたしのようにlet'sの言い方しかしないと,なかなか静かにならないし
また私が注意していることに気づかないことすらある。

この差をどう考えていいのだろう?

わたしは淡々として静かな教員が理想。
でもそういう理想を捨てなければならないといわれる。
そうなのかなぁ・・・

静けさがわたしには大事だ。
無理だとしても。
# by KATEK | 2011-12-14 20:02