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日常って、微妙な差異こそ大事かなと思います。


by KATEK
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ひざ,いじめ,,ゆとり,生活・・・

いま流れている曲は,バッハのゴールドベルク変奏曲。
ギター演奏だ。
ギターの音色が好きなわたしは,いい気分。

ゴールドベルク変奏曲はいろいろな楽器で演奏されている
けれど,このギターはなかなか。
素朴な音色が気持ちを優しくしてくれる。

ひざのほうは,痛み止めを飲んで湿布をしていたら,だいぶ
治まってきた。
ともかく動かすことが大事だというので,歩いてはみるけれど,
どうも消極的な歩き方になってしまう。
それに比べて家事,とくに料理はひざにはいいかもしれない。
ひざのことなんか考えていられないさっさとした動きが必要に
なってくるから,自然に両足を同じように使う。
何にも考えないで動くのがいいのかな。

それにしても,また教育の話。
「ゆとり教育」の見直しだって。
よくもまぁかきまわしてくれるは・・・

国語の時間(前にも書いたけれど,「日本語」の時間と
言い換えたいのだ)を増やすのはいい。
でも,どう増やすかが問題。
単にドリルのようなものをやるようになってしまっては,
言葉の力を習得することにはつながらないだろう。

教員がアニマシオンの勉強をしたり,いろいろな本を読んだり
する勉強の時間を確保してくれない限り,授業の質は
変わらない。

なによりも学校という空間が居心地のよいところになって
いかない限り,(少なくとも収容所のようにならないように)
学びの芽はでてこないだろう。
そんなことになるはずもないというのは,学校というシステムが
近代化に伴って出てきたという歴史を見れば明らか。
だから,脱学校ただしどこかで社会化の機会を確保すること
のほうが,現実的かな?

いじめも学校という場にいかなくてはならないという枷がある
からこそでてくるものだ,そう芹沢さんは書いていた。

『「いじめ」が終わるとき』の結論で,一つの新しい見方が
出てきたと感じた部分は,一人になる力を育てること,という
ところ。

こう書いてある。

>「いじめ」が終わることの条件として,二つの答えを引き出す
>ことができそうに思えてくる。
>一つは「みんな」という帰属性を求めないこと。
>二つ目として同じことの裏返しであるが,私たち一人ひとりが
>「ひとり」になることができる力を持つこと。
>「ひとり」になるには,どうしたらいいのだろう。
   ・・・・・・
>私たち一人ひとりが「ひとり」になることができるためには,
>菅原哲夫にならえば,内部に「隣る人」を作ることである。
   ・・・・・・
>自尊感情の核である「隣る人」が子どものなかに育っていく
>ためには,ウィニコットがいうように,「誰かがいっしょにいる」
>というプロセスが不可欠なのである。

自尊感情がいかに大切かは,わたし自身は身をもって感じて
いる。自分のことを見ても,今まで接してきた生徒を見ても。

教科の学習云々以前に,自尊感情があっておびえて時間を
過ごすことなんかない,そんな環境が必要なのだ。

今の社会,子どもも大人もそれぞれの世界でおびえている,
そんな気がするのはわたしだけだろうか。
「ひとり」になる力はたぶん大人にも求められている。

必要なときに必要な人のとなりにただいるだけの存在に
なれたらいいなぁ,そう思う日が続く。
by KATEK | 2007-10-31 20:11