日常って、微妙な差異こそ大事かなと思います。


by KATEK
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昨日考えたこと。

今日2度目。

最近,何だかブログの文章が気に食わない,と感じていた。
久々にからだを動かしたら,その訳がぱっと浮かんだ。
(単に歩いたり,自転車こぎしたりということは,実はすごいことって
思う。)

わたしって,この頃,ただ心象風景を書くようになってしまっている
ようで,いいかえれば=人にわかってもらえる文章を書くということを
忘れていた。

職業教育なんていったって全然具体性ないもの。

そこで,せっかく読んだ熊沢さんの本の中で
何にわたしが反応したか,そこを書いておこうと思う。

『若者が働くとき』という本の副題に
―「使い捨てられ」も「燃えつき」もせず―とある。

そうなのだ。
今の労働は,両極端になっているのが現状だということ。
長時間で密度の高い労働をしいられるか,
派遣労働やアルバイト・パートのように,それだけでは生活できない
ものになっているかのどちらか。

高校生にもなると,アルバイト経験者はかなり多数を占めるから
労働現場の厳しさを感じてしまう。
店長の忙しい仕事ぶりを見たら,自分は耐えられないと
すぐ手をあげてしまうことも,さもあらんだ。
つまり,教員の知らない実態を彼らのほうが,知っているかも
しれないということ。

それなのに,高みからフリーターになるのは辞めなさいという
「指導」が学校では入る。
もちろん「君のためにならないよ。」と。
生徒は,聞く耳をもたなくても当然かもしれない。

それに,社会にでて生き延びる手立てを学校は教えない。
個性を発揮するようにとか,自分にどんな仕事があっているか
よく考えなさいとはいうが,自分の適性なんかわかるはずがないのだ。

自分探しと称して,働けなくなってしまう若者に,
仕事の中にある喜びの種類を投げかけてあげることが大事。
単調労働でも,働く仲間がいることで仕事に喜びをみいだすことも
あるだろう。
また,他人のためになる仕事というものがあること,そこに
生きがいが見つけられるかもしれないということを伝えること。
それを具体例で示すことに意味があるかもしれない。

協同して働くということに,喜びと必要性があることは,
労働組合やギルド・協会の歴史などを伝えることで示せるかもしれない。

ニート批判やフリーター批判をしても,いまや力にはならない。
今の労働組合のやり方を踏襲することも限界がある。
けれど,たとえば,コミュニティ・ユニオンの存在を知らせることだけでも
生きる力になるかもしれない。
そんな,生きる力(文科省のいうものとは同じではない)を
どう提示できるかが,私に課せられた課題だ。

熊沢さんの
>社会と出会うことなしに私たちは自己に出会うことはできないのです。
ということばを,頭にとどめよう。

ところで,待ちに待った,両親からの葉書(返事)が届いた。
ありがたいことだ。
でも,書くということにこれだけ抵抗感があるとは,考えてもみなかった。
親の書く気持ちを高めることができれば,
生徒にもわたしのことばが伝わるようになるかな。

うーん。ここまで書いたものの
いつもとあんまり代わりばえしない文章だな。
こりゃいかん。
山田ズーニーさんがいっていたけど,批判することは自分をいつの
間にか,高いところにおいてしまうことになりやすい。
説教も同じ。
だから,そうじゃない書き方をしたいと思っている。
でも,どうすればいいんだろう。

だいたい,わたしの文章は「~かもしれない」ばかりだ。
こわごわ書いているってこと?
何だか変だ。

わたしの文章について,気になることがあったら
教えてください。
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by KATEK | 2006-03-24 17:36