荒川さんの文章から
2007年 02月 22日
せっかくなので今はまっている荒川洋治さんの本から,一部抜粋しよう。
『本を読む前に』 新書館から
>文学部で源氏物語や川端康成や大江健三郎やフランス現代思想を
>お勉強しても,人間として使いものにならなければ,どうしようもない。
>真の「文学的想像力」とは,依頼状を書くことである。
荒川さんのエッセイ集のなかで,一番おもしろいと思うのがこの
『本を読む前に』だ。
荒川さんは文章(詩やエッセイ)を書く人だから,原稿の依頼がよくくる。
ところが,締切日だとか,写真が必要だとか,金銭的なこととか
きちんと最初から説明しないでおいて,あとからバラバラと「~してくれ」と
編集者側から依頼が来るのだそうだ。
最初からいっておいてくれれば,自分なりの準備ができて都合をつけられる
ことも多いのだけれど,そんな細かなことは想像もしないでただ「書いてくれ」
とだけ頼むというのはどうか。
相手のことと自分の仕事とを前もって考え,必要なことは始めにそろえて
おける,そういう想像力こそ本物だということ。
おお,そうか!
と,わたしは納得。
文学とは人間を描くことなのだから,(自然を描くとしても,人間の目で
描くことには違いない),相手を想像するということはあたりまえのこと。
でも,わたしもなかなかそうはできない。
せっかちすぎるし,細かすぎるらしい,要求が。
文学していないなぁとまさに思った次第。
『世に出ないことば』より
>個人のことばがいのちを保つには,それを見ている人が必要だ。ただ,
>ことばの意味を理解するということはない。ここに,誰もいわないこと,
>いえないことを述べた人がいる,その人を支えていこうという人たちが,
>いなくてはならない。そのことばがそのときの状況のなかで,どんなに
>個人的なものであっても,そう述べた人を孤立させまいとする人たちが
>いなくてはならない。いつも,どんな世界にあっても,そういう人たちが
>いることで,ことばは少しでも先へと,いのちを伸ばしていけるのだ。
黒島伝治という作家の小説の中で,戦場での農民の会話をかいたところ
があるそうだ。
=「殺し合いって,無常なもんだなあ!」
彼らは,ぐっと胸を突かれるような気がした。
「おい,おれゃ,今やっとわかった。」と吉原がいった。「戦争をやっとる
のはおれらだよ。」「おれらに無理にやらせる奴があるんだ。」
だれかがいった。
「でも戦争をやっとる人はおれらだ。おれらがやめれゃ,やまるんだ。」
この文に対して荒川さんはこう続けた。
>素朴なことば,あるいは壊れもののことばとみなされて,これからも現実の
>社会のなかでは力をもたないものなのである。そう心に思ったとしても,
>そうはできない,そういうときのことばはすべて,個人のことばである。その人
>ひとりのものなのだ。そこにことばのはかなさも美しさも強さもあるのだが,
>個人のことばがひとつであること,残されていることは,はじめからことばが
>なかったことと同じではない。
人間のことばって,個人のことばなんだ。それを支える人がいるんだ。
ってことが,とってもわたしの中に響く。
ことばが少しでも力をもちえるとしたら,わたしはその人のことばを
支えていくことが大事なんだ。
ということで,荒川さんの視点というのは,とても新鮮に感じるものが多い。
あと1冊読む予定。
ところで,前に陶器市にいって,相方が選んで買ってくれたカップにひびが
はいっていて,残念ながら返金してもらったことがあった。
そこに今日は突然のプレゼント。
コーヒーを飲むための「マイカップ」を買ってきてくれた。
うれしー。
(写真ではおおきくみえるけれど,手のひらサイズ。デミタスカップ。
ちゃんとまんなかには指のくぼみがついていて,シンプルだけれど
使い心地がいいのです。)
ついでに,相方が作ってくれたプリンをご紹介。
これは最初のもの。あとでもう一度作ってくれて,今まだ残りがある。
うれしー。
焼きプリンなのです。すもはいっています。
『本を読む前に』 新書館から
>文学部で源氏物語や川端康成や大江健三郎やフランス現代思想を
>お勉強しても,人間として使いものにならなければ,どうしようもない。
>真の「文学的想像力」とは,依頼状を書くことである。
荒川さんのエッセイ集のなかで,一番おもしろいと思うのがこの
『本を読む前に』だ。
荒川さんは文章(詩やエッセイ)を書く人だから,原稿の依頼がよくくる。
ところが,締切日だとか,写真が必要だとか,金銭的なこととか
きちんと最初から説明しないでおいて,あとからバラバラと「~してくれ」と
編集者側から依頼が来るのだそうだ。
最初からいっておいてくれれば,自分なりの準備ができて都合をつけられる
ことも多いのだけれど,そんな細かなことは想像もしないでただ「書いてくれ」
とだけ頼むというのはどうか。
相手のことと自分の仕事とを前もって考え,必要なことは始めにそろえて
おける,そういう想像力こそ本物だということ。
おお,そうか!
と,わたしは納得。
文学とは人間を描くことなのだから,(自然を描くとしても,人間の目で
描くことには違いない),相手を想像するということはあたりまえのこと。
でも,わたしもなかなかそうはできない。
せっかちすぎるし,細かすぎるらしい,要求が。
文学していないなぁとまさに思った次第。
『世に出ないことば』より
>個人のことばがいのちを保つには,それを見ている人が必要だ。ただ,
>ことばの意味を理解するということはない。ここに,誰もいわないこと,
>いえないことを述べた人がいる,その人を支えていこうという人たちが,
>いなくてはならない。そのことばがそのときの状況のなかで,どんなに
>個人的なものであっても,そう述べた人を孤立させまいとする人たちが
>いなくてはならない。いつも,どんな世界にあっても,そういう人たちが
>いることで,ことばは少しでも先へと,いのちを伸ばしていけるのだ。
黒島伝治という作家の小説の中で,戦場での農民の会話をかいたところ
があるそうだ。
=「殺し合いって,無常なもんだなあ!」
彼らは,ぐっと胸を突かれるような気がした。
「おい,おれゃ,今やっとわかった。」と吉原がいった。「戦争をやっとる
のはおれらだよ。」「おれらに無理にやらせる奴があるんだ。」
だれかがいった。
「でも戦争をやっとる人はおれらだ。おれらがやめれゃ,やまるんだ。」
この文に対して荒川さんはこう続けた。
>素朴なことば,あるいは壊れもののことばとみなされて,これからも現実の
>社会のなかでは力をもたないものなのである。そう心に思ったとしても,
>そうはできない,そういうときのことばはすべて,個人のことばである。その人
>ひとりのものなのだ。そこにことばのはかなさも美しさも強さもあるのだが,
>個人のことばがひとつであること,残されていることは,はじめからことばが
>なかったことと同じではない。
人間のことばって,個人のことばなんだ。それを支える人がいるんだ。
ってことが,とってもわたしの中に響く。
ことばが少しでも力をもちえるとしたら,わたしはその人のことばを
支えていくことが大事なんだ。
ということで,荒川さんの視点というのは,とても新鮮に感じるものが多い。
あと1冊読む予定。
ところで,前に陶器市にいって,相方が選んで買ってくれたカップにひびが
はいっていて,残念ながら返金してもらったことがあった。
そこに今日は突然のプレゼント。
コーヒーを飲むための「マイカップ」を買ってきてくれた。
うれしー。
(写真ではおおきくみえるけれど,手のひらサイズ。デミタスカップ。
ちゃんとまんなかには指のくぼみがついていて,シンプルだけれど
使い心地がいいのです。)
ついでに,相方が作ってくれたプリンをご紹介。
これは最初のもの。あとでもう一度作ってくれて,今まだ残りがある。
うれしー。
焼きプリンなのです。すもはいっています。
by KATEK
| 2007-02-22 21:33