近況報告
少しづつ陽が伸びてきて、うれしいかぎり。
これから私の調子もだんだん上向きになってくれそうな
予感。
なんだか近頃パソコンが嫌いになってきて、あんまり
触りたくない日が多かった。
(仕事ではしかたがないから触るけれど)
このブログもわたしの生活・仕事もリセットしたくなって、
だらだらしていた。
今は、発達障害の勉強中。
生徒とのやりとりを考えてのこと。
わたしこそ言葉につまずきがあって、教員との話がスムーズに
いかない。
話をしたくない日が増える。
でもそれでもいい。
話したくなければ話さなくても。
事務連絡ばかりでもいい。
静かにくらそう。
これから私の調子もだんだん上向きになってくれそうな
予感。
なんだか近頃パソコンが嫌いになってきて、あんまり
触りたくない日が多かった。
(仕事ではしかたがないから触るけれど)
このブログもわたしの生活・仕事もリセットしたくなって、
だらだらしていた。
今は、発達障害の勉強中。
生徒とのやりとりを考えてのこと。
わたしこそ言葉につまずきがあって、教員との話がスムーズに
いかない。
話をしたくない日が増える。
でもそれでもいい。
話したくなければ話さなくても。
事務連絡ばかりでもいい。
静かにくらそう。
場面緘黙から離陸。
場面緘黙。
まだ気持ちの上で引きずっている。
ひきずってもしかたがないことは承知しているけれど、
自分の<傷つきやすさ>の根っこがこんなところにあって、
しかも遺伝的なものである可能性が高い、
つまりDNAに書き込まれている脆弱性というわけで、
ここから逃れることは難しいとなると、冷静になれない。
小さなころに治療しておく必要があるといわれても、
もう過ぎてしまったことだし、たぶん多くの大人たちが
同じ問題を抱えているに違いないと思うと、歯がゆくもある。
わたしが生きていくには、一定のリズムで一人の静かな時間を
もつことが大事なこと。
そして気のゆくまま眠ること。
このせわしい世の中で働きながら、静かな時間を持つのは
難しい。
でもなんでも「難しい」と思いすぎているのかも。
すこし頭を離陸しよう。
まだ気持ちの上で引きずっている。
ひきずってもしかたがないことは承知しているけれど、
自分の<傷つきやすさ>の根っこがこんなところにあって、
しかも遺伝的なものである可能性が高い、
つまりDNAに書き込まれている脆弱性というわけで、
ここから逃れることは難しいとなると、冷静になれない。
小さなころに治療しておく必要があるといわれても、
もう過ぎてしまったことだし、たぶん多くの大人たちが
同じ問題を抱えているに違いないと思うと、歯がゆくもある。
わたしが生きていくには、一定のリズムで一人の静かな時間を
もつことが大事なこと。
そして気のゆくまま眠ること。
このせわしい世の中で働きながら、静かな時間を持つのは
難しい。
でもなんでも「難しい」と思いすぎているのかも。
すこし頭を離陸しよう。
場面かん黙 パート2。
場面かん黙といっても,そういう人を見たことがない方も
大いに違いない。
でも教室にやってくる子を見ていると,何年かに1度という割合で
かん黙の子に会う。
統計上は女子のほうが多いのだが,今までに出会ったのは男子のみ。
場面かん黙の場合は,だいたい家の中では話ができる。
学校とか外に出てしまうと,発話ができなかったり,からだの
動きが緩慢になったり,できないことが多くなってしまう。
そして何より,なぜ声が出ないのか,なぜ学校では話ができないのか
本人にもさっぱりわからず,しかも周りから「変わった子」扱いされる
のが問題なのだ。
わたしは2年間,声を出せず,絵や工作ができず,運動ができず
だから遊ぶことができずにいた。
休み時間になると,いつも木に寄りかかってぼーっと周りの子が
遊ぶのを見ていた。
休み時間は苦痛だった。ここにいていいのかっていう感じが
していたから。
この場にいていいのかという不安は,20歳代いっぱい続いていた。
外でトイレに行けないのは小学校5年まで。
初めて学校のトイレにいった5年生のときのことは,よく覚えている。
運動会の予行練習の日だったと思う。
恥ずかしいのと達成感とで複雑な気分がした。
でも,まわりの友達にトイレに行けないことを知られないように
していたから,顔つきはいつものまま。
小学校中学年になっても図工の時間,作品が作れない不安で,
いつも学校で作る前に母親に作ってもらってもっていっていた。
情けないがしかたがなかった。
担任も何も言わなかった。
場面かん黙の場合の不安は,普通の人が感じる不安と程度が
ちがうらしい。
緊張でのどの筋肉がかたまり声が出なくなる。
なぜ,何に緊張し不安を持つのか,原因は不明。
今,私自身の中で問題になっている学校での対人関係について,
カウンセラーいわく,
「感じている以上に大きな打撃を受けていると思いますよ。」と。
だからからだが反応してしまうわけだ。
もうだめってなってしまう。
考えてみれば些細なことなのに,わたしの脆弱性がそれを
受け入れられないということだ。
場面かん黙の子どもは少なからずいる。
でも日本では情報があまりない。
研究もあまりされていない。
後遺症が残らないように,学校自体がもっと体制を整える
必要があるとつくづく思う。
わたしは幸い,母や家族からも担任からも手は打たれず,
黙ったまま放っておかれたので,深刻な2次災害は受けずに
すんだ。
幸いでもないけれど・・・・
ということでした。
大いに違いない。
でも教室にやってくる子を見ていると,何年かに1度という割合で
かん黙の子に会う。
統計上は女子のほうが多いのだが,今までに出会ったのは男子のみ。
場面かん黙の場合は,だいたい家の中では話ができる。
学校とか外に出てしまうと,発話ができなかったり,からだの
動きが緩慢になったり,できないことが多くなってしまう。
そして何より,なぜ声が出ないのか,なぜ学校では話ができないのか
本人にもさっぱりわからず,しかも周りから「変わった子」扱いされる
のが問題なのだ。
わたしは2年間,声を出せず,絵や工作ができず,運動ができず
だから遊ぶことができずにいた。
休み時間になると,いつも木に寄りかかってぼーっと周りの子が
遊ぶのを見ていた。
休み時間は苦痛だった。ここにいていいのかっていう感じが
していたから。
この場にいていいのかという不安は,20歳代いっぱい続いていた。
外でトイレに行けないのは小学校5年まで。
初めて学校のトイレにいった5年生のときのことは,よく覚えている。
運動会の予行練習の日だったと思う。
恥ずかしいのと達成感とで複雑な気分がした。
でも,まわりの友達にトイレに行けないことを知られないように
していたから,顔つきはいつものまま。
小学校中学年になっても図工の時間,作品が作れない不安で,
いつも学校で作る前に母親に作ってもらってもっていっていた。
情けないがしかたがなかった。
担任も何も言わなかった。
場面かん黙の場合の不安は,普通の人が感じる不安と程度が
ちがうらしい。
緊張でのどの筋肉がかたまり声が出なくなる。
なぜ,何に緊張し不安を持つのか,原因は不明。
今,私自身の中で問題になっている学校での対人関係について,
カウンセラーいわく,
「感じている以上に大きな打撃を受けていると思いますよ。」と。
だからからだが反応してしまうわけだ。
もうだめってなってしまう。
考えてみれば些細なことなのに,わたしの脆弱性がそれを
受け入れられないということだ。
場面かん黙の子どもは少なからずいる。
でも日本では情報があまりない。
研究もあまりされていない。
後遺症が残らないように,学校自体がもっと体制を整える
必要があるとつくづく思う。
わたしは幸い,母や家族からも担任からも手は打たれず,
黙ったまま放っておかれたので,深刻な2次災害は受けずに
すんだ。
幸いでもないけれど・・・・
ということでした。
場面かん黙でした。
本屋で偶然「場面かん黙」の本を見つけた。
私自身,この「場面かん黙」を幼稚園・小学1年生の
2年間経験していたが,そのときの気持ちや行動の
理由がまったくわからず,時々思い出しては,
腑に落ちない感じを持ち続けていた。
本を読んだら,わかる・わかる!
今になってやっと場面かん黙の治療の必要性が
いわれるようになったくらいだから,私の子ども時代に
治療なんて考えられもしなかったのだろう。
わたしは勝手に治ってしまった。
と,思っていたがそうは問屋がおろさず。
今になっても当てはまる後遺症があるのだ。
学校にいる間はまったく話しもせず,遊びもせず,
体育の授業にも参加せず,絵も描かず,泣いてばかりいた
小学1年生のあの頃。
小さい頃からなにしろ「おとなしく」一人で遊んでいた。
母親は舅・姑の前,わたしと遊ぶことなど一切しなかったし,
話さえしなかった。
母が最後にお風呂に入る時間になって,やっとわたしを
一緒にお風呂に入れてトーキングタイム。
でも,じっさいには母の愚痴を聞く時間になっていて,
母がかわいそうだから何とかしてあげたいと思いを
強めることになっただけ。
母になついていたが,母からの
「何事も我慢が大事」という話に,今思えばわたしは
どんどん縮こまっていった。
表現することをがまんすること,
そればかりが身について,表現していいのは
「正義」を行うときだけという枷がはめられてしまったようだ。
なにしろ「弱い人を助けなさい」とずいぶん言われたから。
というわけで,いくらマッサージに行っても,
なにをしてもからだがほぐれず頭痛が続く毎日というのが
当たり前の結果だとわかったわけだ。
これって愚痴か知らん。
でも,
いまさらながら,誰かに助けてもらわないとだめみたいな
気になってきた。
カウンセラーには
「よくここまでやってきましたねぇ。」とため息交じりで言われた。
「がんばってますよ。本当に。」とも。
もうがんばるのやめたいなぁ・・・
私自身,この「場面かん黙」を幼稚園・小学1年生の
2年間経験していたが,そのときの気持ちや行動の
理由がまったくわからず,時々思い出しては,
腑に落ちない感じを持ち続けていた。
本を読んだら,わかる・わかる!
今になってやっと場面かん黙の治療の必要性が
いわれるようになったくらいだから,私の子ども時代に
治療なんて考えられもしなかったのだろう。
わたしは勝手に治ってしまった。
と,思っていたがそうは問屋がおろさず。
今になっても当てはまる後遺症があるのだ。
学校にいる間はまったく話しもせず,遊びもせず,
体育の授業にも参加せず,絵も描かず,泣いてばかりいた
小学1年生のあの頃。
小さい頃からなにしろ「おとなしく」一人で遊んでいた。
母親は舅・姑の前,わたしと遊ぶことなど一切しなかったし,
話さえしなかった。
母が最後にお風呂に入る時間になって,やっとわたしを
一緒にお風呂に入れてトーキングタイム。
でも,じっさいには母の愚痴を聞く時間になっていて,
母がかわいそうだから何とかしてあげたいと思いを
強めることになっただけ。
母になついていたが,母からの
「何事も我慢が大事」という話に,今思えばわたしは
どんどん縮こまっていった。
表現することをがまんすること,
そればかりが身について,表現していいのは
「正義」を行うときだけという枷がはめられてしまったようだ。
なにしろ「弱い人を助けなさい」とずいぶん言われたから。
というわけで,いくらマッサージに行っても,
なにをしてもからだがほぐれず頭痛が続く毎日というのが
当たり前の結果だとわかったわけだ。
これって愚痴か知らん。
でも,
いまさらながら,誰かに助けてもらわないとだめみたいな
気になってきた。
カウンセラーには
「よくここまでやってきましたねぇ。」とため息交じりで言われた。
「がんばってますよ。本当に。」とも。
もうがんばるのやめたいなぁ・・・
うーん。そうですねぇ。
昨日は,女性の使うことばに命令形は不向きと書いた。
stlさんのコメントを読ませたいただいて,
わたしのくくりかたは大雑把な気がしてきた。
そこで再考。
昔,好きで(感動して),なんども生徒に紹介した詩がある。
(もちろん今も好き。でも生徒には古くなってしまった)
アパルトヘイトの時代に,南アの女性の詩人が書いたもの。
「違うと言おう」というもの。
白人に偏見を持ったことばを投げかけられたら,
違うといおうという趣旨の短いフレーズが続く。
(手元に詩集がないので紹介できないのが残念)
NO!ということばは強い。
映画「スタンドアップ」でも炭鉱で働くことになった女性の主人公は
いろいろな場面でNOをつきつける。
茨木さんの詩にも強い言葉がでてくる。
自分の感性を自分で保つことができないものに対して,
ばかものめ,と言い切る。
英語圏では強いことばを使いやすいのかもしれないし,
文字にすると日本語もまた強いことばが使いやすいのかも
知れない。
それに「静かにしろ!」ではなくて「静かに!」とか「静かになさい!」
とか,日常口にすることばで強い感情を表すことはできるのだ。
ただ,男性と違って,ふいにことばを発したときに命令形の強い
ことばは,わたしにはなかなか出てこない。
せいぜい「うるさい!」と自分の気持ちを言うくらい。
命令形を使うときは,考えてから出ないとたぶん難しい。
生徒いわく
「男の先生はさっぱりおこっておしまいだけれど,女の先生は
ねちねちしつこい」
でもどうしても言葉数で説き伏せることしかない場合が増えるのは確か。
そこに権威を見せようとすると生徒にとっては,もうアウトだ。
わたしすら職員室での女性の先生の説教にはうんざりするくらいだ。
女性って不利だよなぁ,なんてつい思ってしまう。
でも本当は不利でもなんでもなく,
女性性を大事にした人間関係や言葉遣いを大事にしたい。
昔のわたしならジェンダーフリーの観点から・・・なんて思って
こんなことは言わなかったかもしれないけれど,今は自分が
気負わないでものを言えることのほうを選ぶ。
まぁなにしろことばは難しいものだ。
と,今日はここまで。
stlさんのコメントを読ませたいただいて,
わたしのくくりかたは大雑把な気がしてきた。
そこで再考。
昔,好きで(感動して),なんども生徒に紹介した詩がある。
(もちろん今も好き。でも生徒には古くなってしまった)
アパルトヘイトの時代に,南アの女性の詩人が書いたもの。
「違うと言おう」というもの。
白人に偏見を持ったことばを投げかけられたら,
違うといおうという趣旨の短いフレーズが続く。
(手元に詩集がないので紹介できないのが残念)
NO!ということばは強い。
映画「スタンドアップ」でも炭鉱で働くことになった女性の主人公は
いろいろな場面でNOをつきつける。
茨木さんの詩にも強い言葉がでてくる。
自分の感性を自分で保つことができないものに対して,
ばかものめ,と言い切る。
英語圏では強いことばを使いやすいのかもしれないし,
文字にすると日本語もまた強いことばが使いやすいのかも
知れない。
それに「静かにしろ!」ではなくて「静かに!」とか「静かになさい!」
とか,日常口にすることばで強い感情を表すことはできるのだ。
ただ,男性と違って,ふいにことばを発したときに命令形の強い
ことばは,わたしにはなかなか出てこない。
せいぜい「うるさい!」と自分の気持ちを言うくらい。
命令形を使うときは,考えてから出ないとたぶん難しい。
生徒いわく
「男の先生はさっぱりおこっておしまいだけれど,女の先生は
ねちねちしつこい」
でもどうしても言葉数で説き伏せることしかない場合が増えるのは確か。
そこに権威を見せようとすると生徒にとっては,もうアウトだ。
わたしすら職員室での女性の先生の説教にはうんざりするくらいだ。
女性って不利だよなぁ,なんてつい思ってしまう。
でも本当は不利でもなんでもなく,
女性性を大事にした人間関係や言葉遣いを大事にしたい。
昔のわたしならジェンダーフリーの観点から・・・なんて思って
こんなことは言わなかったかもしれないけれど,今は自分が
気負わないでものを言えることのほうを選ぶ。
まぁなにしろことばは難しいものだ。
と,今日はここまで。
女性にとっての命令形。
ある本を見つけようとして本棚をごそごそしていたら,
忘れていた本を見つけた。
ことばに関する本。
(今手元にないので書名は略)
昨日学校で,窓からか顔をだし大きな声で,
生徒に向かって怒鳴っている男性の教員がいた。
あまりに大きな声だったので,若い男の先生は
「迫力あるなぁ。」と感心していたようだった。
わたしはあれ?とおもったのに。
そんな大声を出さなくたっていいだろうにと。
校門から出て行こうとする生徒に,
「どこにいくんだ。でちゃだめだろ。戻れ。早く戻れ。」
と「指導」。
そう,昨日見つけた本の話に戻ると,
女性の使うことばは怒りの表現に向いていないこと。
またしかる・怒鳴ることにも不向き。
まったくだと思う。
男性の教員は,「教室に入れ」から始まって,
全てを命令形で話しても,おそらく生徒には違和感がない。
もしも同じようにぶっきらぼうに女性がそんなことばを
使ったらドウだろう?
教員になって数年の間,わざとそういうことばを使ったことがある。
またある程度歳がいった女性の先生で,怒るとそういうことばを
使う人もいる。
でも,すごく無理しているとしか聞こえない。
聞きたくないような声を出しているといってもいい。
自然と命令形のことばに従う生徒のほうが多いし,
わたしのようにlet'sの言い方しかしないと,なかなか静かにならないし
また私が注意していることに気づかないことすらある。
この差をどう考えていいのだろう?
わたしは淡々として静かな教員が理想。
でもそういう理想を捨てなければならないといわれる。
そうなのかなぁ・・・
静けさがわたしには大事だ。
無理だとしても。
忘れていた本を見つけた。
ことばに関する本。
(今手元にないので書名は略)
昨日学校で,窓からか顔をだし大きな声で,
生徒に向かって怒鳴っている男性の教員がいた。
あまりに大きな声だったので,若い男の先生は
「迫力あるなぁ。」と感心していたようだった。
わたしはあれ?とおもったのに。
そんな大声を出さなくたっていいだろうにと。
校門から出て行こうとする生徒に,
「どこにいくんだ。でちゃだめだろ。戻れ。早く戻れ。」
と「指導」。
そう,昨日見つけた本の話に戻ると,
女性の使うことばは怒りの表現に向いていないこと。
またしかる・怒鳴ることにも不向き。
まったくだと思う。
男性の教員は,「教室に入れ」から始まって,
全てを命令形で話しても,おそらく生徒には違和感がない。
もしも同じようにぶっきらぼうに女性がそんなことばを
使ったらドウだろう?
教員になって数年の間,わざとそういうことばを使ったことがある。
またある程度歳がいった女性の先生で,怒るとそういうことばを
使う人もいる。
でも,すごく無理しているとしか聞こえない。
聞きたくないような声を出しているといってもいい。
自然と命令形のことばに従う生徒のほうが多いし,
わたしのようにlet'sの言い方しかしないと,なかなか静かにならないし
また私が注意していることに気づかないことすらある。
この差をどう考えていいのだろう?
わたしは淡々として静かな教員が理想。
でもそういう理想を捨てなければならないといわれる。
そうなのかなぁ・・・
静けさがわたしには大事だ。
無理だとしても。
『英国王のスピーチ』
『英国王のスピーチ』というDVDを見た。
なかなかよいよい。
第一次世界大戦から第二次世界大戦の間に、「不運にも」
イギリスの国王になってしまったジョージ6世の実話だ。
国王になると予想もしていなかった主人公(のちジョージ6世)。
彼は小さなころからどもりがあった。
吃音障害(?)
厳しかった・立派だった父、強い兄、躾の厳しいうばたち、
そういう人間の中で自信をくだかれて育った彼は、
国民の前でクリスマススピーチをしようとすると
ことばがでなくなってしまう。
吃音を直してくれる医者を何人も探したがうまくいかず、
最後に出会った人が・・・
この自称「医者」がとってもいい。
彼との関係の描き方が、本当にいい。
涙がちょっとぽろり。
自尊心と自信のなさが混在する、さらに特別な地位にある人間の
苦しみとかっこわるさ・傲慢さが伝わってくる。
でも最後はかっこよく終わるのだけれど・・・
そこがすんなりいきすぎて。
もう少しねばって苦しんでほしかった!?
ここにでてきた自称「医者」がわたしのひとつの理想かも。
ぶれないし、でも患者のために悩むし、些細なことなど
気にもかけない強さがある。
いいなぁ。
さて、今日は成績の入力で力尽きている。
ここでやめよう。
そうとうハイに向かっているようでこわいこわい。
なかなかよいよい。
第一次世界大戦から第二次世界大戦の間に、「不運にも」
イギリスの国王になってしまったジョージ6世の実話だ。
国王になると予想もしていなかった主人公(のちジョージ6世)。
彼は小さなころからどもりがあった。
吃音障害(?)
厳しかった・立派だった父、強い兄、躾の厳しいうばたち、
そういう人間の中で自信をくだかれて育った彼は、
国民の前でクリスマススピーチをしようとすると
ことばがでなくなってしまう。
吃音を直してくれる医者を何人も探したがうまくいかず、
最後に出会った人が・・・
この自称「医者」がとってもいい。
彼との関係の描き方が、本当にいい。
涙がちょっとぽろり。
自尊心と自信のなさが混在する、さらに特別な地位にある人間の
苦しみとかっこわるさ・傲慢さが伝わってくる。
でも最後はかっこよく終わるのだけれど・・・
そこがすんなりいきすぎて。
もう少しねばって苦しんでほしかった!?
ここにでてきた自称「医者」がわたしのひとつの理想かも。
ぶれないし、でも患者のために悩むし、些細なことなど
気にもかけない強さがある。
いいなぁ。
さて、今日は成績の入力で力尽きている。
ここでやめよう。
そうとうハイに向かっているようでこわいこわい。
ツタの紅葉にみとれて・・・
今、ツタがきれいだ。
私の大好きな植物のひとつ。
とくに木をはい上っていくツタの様子が好き。
そして紅葉したツタの葉のグラデーションはたまらなく好き。
黄色・紫・赤の色が複雑にまじりあって、
一枚の葉だけを見ても、また全体を見たときも
あぁなんて美しい!と声をかけたくなる。
毎年ツタの成長を楽しみにしているのだ。
昨日ある発見をした。
たわいない一つの発見。
日本の昔からの花の文様を集めたカラーの本を見ていたとき。
ツタの葉の描き方の巧みさに感動。
一枚づつの葉は単色。
黄色い葉、紫の葉、緑の葉、赤い葉とそれぞれ。
それらが一本のツタとして構成されている。
本当だったら一枚の葉の中にあるはずの様々な色が、
分解されて、けれど全体を見渡すと抽象的なグラデーションとなっている。
すばらしい!
しかも、
ここでは赤とか紫とか単純な色の名で表現しているけれど、
和の色彩で微妙な色の組み合わせなので、奥行き感がある。
うっとり。
わたしはある赤い色何色かが本当に好き。
クスノキの落ち葉と、桜の葉の落ち葉とツタの赤。
で、その色を表現したいと思うのだがなかなかできない。
絵の具や色鉛筆の色を重ねてもうまくいかない。
緋の色とマゼンタとの中間くらい?
赤に灰色を入れてあとは・・・?
(といってもそんなに試していないけれど)
これは今後の楽しい課題なのだ。
好きな時に好きな色を使って何かを描くこと。
あ、それと全く別の話。
歩道を歩いていたらお巡りさんが二人で自転車に乗って
話をしながら歩道を走っていた。
ゲゲっ。いいの?そんなことして。
自転車は歩道を走っちゃいけないと法改正されたでしょ。
学校では規律・規律とうるさいが、世の中のモラルは
たぶん低下し続けている。
知らないうちに変な法律がいっぱいできている。
原発の件の賠償にしたって、変な法律!
小さな過ちには厳しいけれど、大きなまたは公的な不正には
鈍感になっている気がしてならない。
国家公務員の給与が高いというけれど、現業の国家公務員は
そんなに給料もらっていないし、地方公務員だって教員だって
いろんなところで格差をつけられて給料はばらばら。
偉そうな顔したマスコミの表に出てくる人の給料は?
NHK職員の給料は?NHKの下請けの人の給料は低いけれど・・・
東電の正社員と下請けの会社の人の給料は?
みーんないっしょくたにして、ただただスケープゴートを作っている。
世の中変だ。
あ、また偉そうに書いてしまった。
でも消さないでおこう。
私の大好きな植物のひとつ。
とくに木をはい上っていくツタの様子が好き。
そして紅葉したツタの葉のグラデーションはたまらなく好き。
黄色・紫・赤の色が複雑にまじりあって、
一枚の葉だけを見ても、また全体を見たときも
あぁなんて美しい!と声をかけたくなる。
毎年ツタの成長を楽しみにしているのだ。
昨日ある発見をした。
たわいない一つの発見。
日本の昔からの花の文様を集めたカラーの本を見ていたとき。
ツタの葉の描き方の巧みさに感動。
一枚づつの葉は単色。
黄色い葉、紫の葉、緑の葉、赤い葉とそれぞれ。
それらが一本のツタとして構成されている。
本当だったら一枚の葉の中にあるはずの様々な色が、
分解されて、けれど全体を見渡すと抽象的なグラデーションとなっている。
すばらしい!
しかも、
ここでは赤とか紫とか単純な色の名で表現しているけれど、
和の色彩で微妙な色の組み合わせなので、奥行き感がある。
うっとり。
わたしはある赤い色何色かが本当に好き。
クスノキの落ち葉と、桜の葉の落ち葉とツタの赤。
で、その色を表現したいと思うのだがなかなかできない。
絵の具や色鉛筆の色を重ねてもうまくいかない。
緋の色とマゼンタとの中間くらい?
赤に灰色を入れてあとは・・・?
(といってもそんなに試していないけれど)
これは今後の楽しい課題なのだ。
好きな時に好きな色を使って何かを描くこと。
あ、それと全く別の話。
歩道を歩いていたらお巡りさんが二人で自転車に乗って
話をしながら歩道を走っていた。
ゲゲっ。いいの?そんなことして。
自転車は歩道を走っちゃいけないと法改正されたでしょ。
学校では規律・規律とうるさいが、世の中のモラルは
たぶん低下し続けている。
知らないうちに変な法律がいっぱいできている。
原発の件の賠償にしたって、変な法律!
小さな過ちには厳しいけれど、大きなまたは公的な不正には
鈍感になっている気がしてならない。
国家公務員の給与が高いというけれど、現業の国家公務員は
そんなに給料もらっていないし、地方公務員だって教員だって
いろんなところで格差をつけられて給料はばらばら。
偉そうな顔したマスコミの表に出てくる人の給料は?
NHK職員の給料は?NHKの下請けの人の給料は低いけれど・・・
東電の正社員と下請けの会社の人の給料は?
みーんないっしょくたにして、ただただスケープゴートを作っている。
世の中変だ。
あ、また偉そうに書いてしまった。
でも消さないでおこう。
トンカツ屋のおやじになりたい。
読まずに積んであった本を偶然手に取った。
一気読み。
前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書)
前田という人のことは良く知らないし、本全体を読んだ感じは
全面納得ではないのだが、急に具体的な話になると
おお!って共感してしまう。
一番共感したのはここ。
「どうして人は殺人をしてはならないの?」
「どうして自殺してはいけないの?」
という中学生の質問に理屈で答えるのは無理だという。
>怖いとんかつ屋のおやじには、はっきりした問題があり、
>日々更新されていく回答がある。このおやじの前で馬鹿な
>質問をする子供は、ほんとうにはいないだろう。
>美味しいトンカツを安く食わせるという回答は、社会のなかで
>だけ成り立つ。だからトンカツ屋のおやじは世間を尊重し、
>それと戦うのである。
>おやじが、この人たちに教えていることは、職業上の明確な
>技術であって、学校で教えるあの「教科」というものではない。
>実際にやってみせるのである。やってみせられることに、
>彼らはたちまちグーの音も出ず、説得されてしまう。
>躾は、感化と一体になった時、社会の圧力を必要としなくなる。
>感化から生まれる約束は、社会や共同体の成立に対する
>義務とは、まったく別のところで交わされる。
>はっきりしているのは、こうした技術はそれを継承したい人間を
>作り出す、ということである。
>躾と感化とは、子供が教育される時の切り離せない二つの
>側面になる。
>この技術教育がほんとうの素質を育て上げるには、感化が要る。
>模倣を掻き立てる一人の人物が要るのである。
>彼は意図せずして、他人に感化を与える。意図して為される
>教育は、意図せずして引き起こされる感化なしには、
>決して実を結ばない。
>子供を今最も直裁に動かすものは、この<流行>という、世界的資本が
>作り出す欲望の化け物である。
>社会の圧力がこれほど低下している時に、それは可能だろうか。
>不可能なら、私たちの社会は化け物じみた欲望の自動機械に
>なっていくしかない。
>先生が言うのは、脅しとしては効くが、躾ではない。世の中には、
>こういう脅しが無数にある。
>躾を可能にさせる社会の圧力が、親からも教師からも感じられ
>なくなったとすれば、子供が躾を受け入れるのは、感化を通してだけ、
>ということになるだろう。感化と一体になった躾なら、今でも成功
>する見込みがある。
>社会の圧力に替わるこの技倆は、躾を支えると同時に感化を与える。
>偉そうな理屈は何ひとつ言わず、目立たぬところに黙って存在している。
引用の順番が適切ではないので、わかりにくかったかもしれない。
脅しではなく、感化を与えられるような「もの」を通した教育ができないか、
と私も感じている。
トンカツ屋のおやじのようになりたい。
そのときわたしにとっての技術や技倆とはなんなのだろう???
目立たないところに、決してうまい授業とは言えないけれど、でも
感化を与えられる教育ってあるのだろうか?
学校教育に限界を感じてはいるが、教育自体のことはこれからも
考えていきたいと思う。
一気読み。
前田英樹『倫理という力』(講談社現代新書)
前田という人のことは良く知らないし、本全体を読んだ感じは
全面納得ではないのだが、急に具体的な話になると
おお!って共感してしまう。
一番共感したのはここ。
「どうして人は殺人をしてはならないの?」
「どうして自殺してはいけないの?」
という中学生の質問に理屈で答えるのは無理だという。
>怖いとんかつ屋のおやじには、はっきりした問題があり、
>日々更新されていく回答がある。このおやじの前で馬鹿な
>質問をする子供は、ほんとうにはいないだろう。
>美味しいトンカツを安く食わせるという回答は、社会のなかで
>だけ成り立つ。だからトンカツ屋のおやじは世間を尊重し、
>それと戦うのである。
>おやじが、この人たちに教えていることは、職業上の明確な
>技術であって、学校で教えるあの「教科」というものではない。
>実際にやってみせるのである。やってみせられることに、
>彼らはたちまちグーの音も出ず、説得されてしまう。
>躾は、感化と一体になった時、社会の圧力を必要としなくなる。
>感化から生まれる約束は、社会や共同体の成立に対する
>義務とは、まったく別のところで交わされる。
>はっきりしているのは、こうした技術はそれを継承したい人間を
>作り出す、ということである。
>躾と感化とは、子供が教育される時の切り離せない二つの
>側面になる。
>この技術教育がほんとうの素質を育て上げるには、感化が要る。
>模倣を掻き立てる一人の人物が要るのである。
>彼は意図せずして、他人に感化を与える。意図して為される
>教育は、意図せずして引き起こされる感化なしには、
>決して実を結ばない。
>子供を今最も直裁に動かすものは、この<流行>という、世界的資本が
>作り出す欲望の化け物である。
>社会の圧力がこれほど低下している時に、それは可能だろうか。
>不可能なら、私たちの社会は化け物じみた欲望の自動機械に
>なっていくしかない。
>先生が言うのは、脅しとしては効くが、躾ではない。世の中には、
>こういう脅しが無数にある。
>躾を可能にさせる社会の圧力が、親からも教師からも感じられ
>なくなったとすれば、子供が躾を受け入れるのは、感化を通してだけ、
>ということになるだろう。感化と一体になった躾なら、今でも成功
>する見込みがある。
>社会の圧力に替わるこの技倆は、躾を支えると同時に感化を与える。
>偉そうな理屈は何ひとつ言わず、目立たぬところに黙って存在している。
引用の順番が適切ではないので、わかりにくかったかもしれない。
脅しではなく、感化を与えられるような「もの」を通した教育ができないか、
と私も感じている。
トンカツ屋のおやじのようになりたい。
そのときわたしにとっての技術や技倆とはなんなのだろう???
目立たないところに、決してうまい授業とは言えないけれど、でも
感化を与えられる教育ってあるのだろうか?
学校教育に限界を感じてはいるが、教育自体のことはこれからも
考えていきたいと思う。
エレガントはお嫌い?
昨日はちょっと豪華にランチを楽しんだ。
レストランで1050円のちょっとしたぜいたく。
でも,こういうところにいくとよく感じるなんだか
変な気分にまたもやなってしまった。
聞き耳をしているわけではないけれど,
隣で食事を楽しみ話をしている高齢の女性ふたり。
とってもていねいでエレガントな口調。
いろんなサークルの話にクラシックの演奏会や
展覧会の話。
よく同じような場面に遭遇する。
なんでこうも同じような声のトーン・話し方・話の内容に
なるのだろうと不思議なのだ。
ずいぶん「いい暮らし」をしているんだなぁと。
妬ましいのではなく,逆にあぁなりたくないと思うわたしは
なんなのか。
相方には,
「君は回りの声を聞きすぎる。聞かないの!聞えても
反応しないの!」といわれる。
そうできればいいのになぁ・・・
ところで,昨日も書いた西村さんの本から。
『いま,地方で生きるということ』ミシマ社 より
川北ありさんへのインタヴューの一部。
川北さんは家族を持ちながらも,点々と移動しながら,
働いたりいろいろな活動をしたりしてきた。
3.11後,基金をつのって仕事という形で津波の後片付けを
する場を創り,活動している。
>最初の3月下旬の被災地入りで,彼はボランティアという立場,
>というかかわり方に疑問を感じたようだ。
川北さんの話
>届く支援物資に「私はあなたと共にいます」とか書いてあるんよ。
>でもどこにおんねん。どこにもおらんやん。なんでそういうこと
>書いてくるかな。「頑張ってください」とか「いつも一緒です」とか。
>現場に来るボランティアも地元の人たちにそういうことを言う。
>でも頑張ってなんて言われる筋合いないやろ。「あきらめないで」って,
>全然あきらめてないよ,ここの人たち。足りひん物資は確かに
>ありがたいねんけどね。この人たちは決して「かわいそうな人たち」
>じゃないでって。
阪神淡路大震災のときに,現場にいけなくてとても後悔したという。
>“活きる”というか,俺の持っているものを活かせるというか。
>腹の据わり方とか,気合とか。ぶれない何かとか。
>支援という感じで来ているわけじゃない。「使ってくれ」
>「使えるよ,俺」という感じで,「ここのために」というのもない。
>俺が活きる場所やと思って来てる。
とまぁこんな話が続く。
川北さんも西村さんも,使命で仕事しているわけでも,活動している
わけでもない。
なんだかそうなってしまって,とかある種の関わり,
芋ズル方式で人と関わり合いができ,それに応じて仕事が
ついていっている感じ。
こういう気持ちのいい働き方があるんだと感心する。
でも,わたしは人間関係とか作り出していくのはうまいほうじゃないし,
そもそも行動範囲を広くすることは,からだがついていかないから
そんなことは求めないし,新たな場所作りのパワーも今はないから,
いろんなことを求めようとは思わない。
ただただ,いろんなケースがあって,あるところにこだわりすぎなくても
いいんだという気がしている。
と,また仕事の話でした。
レストランで1050円のちょっとしたぜいたく。
でも,こういうところにいくとよく感じるなんだか
変な気分にまたもやなってしまった。
聞き耳をしているわけではないけれど,
隣で食事を楽しみ話をしている高齢の女性ふたり。
とってもていねいでエレガントな口調。
いろんなサークルの話にクラシックの演奏会や
展覧会の話。
よく同じような場面に遭遇する。
なんでこうも同じような声のトーン・話し方・話の内容に
なるのだろうと不思議なのだ。
ずいぶん「いい暮らし」をしているんだなぁと。
妬ましいのではなく,逆にあぁなりたくないと思うわたしは
なんなのか。
相方には,
「君は回りの声を聞きすぎる。聞かないの!聞えても
反応しないの!」といわれる。
そうできればいいのになぁ・・・
ところで,昨日も書いた西村さんの本から。
『いま,地方で生きるということ』ミシマ社 より
川北ありさんへのインタヴューの一部。
川北さんは家族を持ちながらも,点々と移動しながら,
働いたりいろいろな活動をしたりしてきた。
3.11後,基金をつのって仕事という形で津波の後片付けを
する場を創り,活動している。
>最初の3月下旬の被災地入りで,彼はボランティアという立場,
>というかかわり方に疑問を感じたようだ。
川北さんの話
>届く支援物資に「私はあなたと共にいます」とか書いてあるんよ。
>でもどこにおんねん。どこにもおらんやん。なんでそういうこと
>書いてくるかな。「頑張ってください」とか「いつも一緒です」とか。
>現場に来るボランティアも地元の人たちにそういうことを言う。
>でも頑張ってなんて言われる筋合いないやろ。「あきらめないで」って,
>全然あきらめてないよ,ここの人たち。足りひん物資は確かに
>ありがたいねんけどね。この人たちは決して「かわいそうな人たち」
>じゃないでって。
阪神淡路大震災のときに,現場にいけなくてとても後悔したという。
>“活きる”というか,俺の持っているものを活かせるというか。
>腹の据わり方とか,気合とか。ぶれない何かとか。
>支援という感じで来ているわけじゃない。「使ってくれ」
>「使えるよ,俺」という感じで,「ここのために」というのもない。
>俺が活きる場所やと思って来てる。
とまぁこんな話が続く。
川北さんも西村さんも,使命で仕事しているわけでも,活動している
わけでもない。
なんだかそうなってしまって,とかある種の関わり,
芋ズル方式で人と関わり合いができ,それに応じて仕事が
ついていっている感じ。
こういう気持ちのいい働き方があるんだと感心する。
でも,わたしは人間関係とか作り出していくのはうまいほうじゃないし,
そもそも行動範囲を広くすることは,からだがついていかないから
そんなことは求めないし,新たな場所作りのパワーも今はないから,
いろんなことを求めようとは思わない。
ただただ,いろんなケースがあって,あるところにこだわりすぎなくても
いいんだという気がしている。
と,また仕事の話でした。
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